三谷幸喜の『国民の映画』を観た

先日、三谷幸喜の『国民の映画』を観た。

最初に断っておくが、オレサマ、これまでこのような芝居や舞台の類を観たことはない。

ついでにいうと、知り合いがステージに上がらないコンサートやライブも観たことがない。

それどころか、映画館も10年(20年?)以上行ってない。

そんな人間が人気の舞台を観た上での戯言、妄想をつらつら書きたい。

この舞台、初心者から上級者まで楽しめるよう、企画、演出することに腐心しているように思えた。

内容を理解するために必要な各種知識のバックグラウンドレベルは極めて低く設定してある。

したがい、初心者にも入りやすい。

それでいながら、高いバックグラウンドレベルを持つ人たちには異なる切り口を楽しめるようになっているのだろう。

だろう、というのはオレサマのバックグラウンドが低いから分からないのだ。

この舞台の内容を抽象的に言うと、

その場にいる人たちにはどうにもならない意思の元、それぞれの信念でそれぞれの役割を果たそうとすることにより生まれる人間同士の関わり合いを描いている、

といったところ。

つまり、舞台内容を自分の身の回りに置き換えられるのがウリの1つなのだと思う。

親戚に苦しむ家族。

オバカ上司に苦しむ職場。

明らかなリソース不足に苦しむプロジェクト。

文化祭の企画に苦しむ高校生。

事なかれ主義の教授に苦しむ研究室。

そのほか、どのような集団にも当てはまりそうだ。

舞台の時代背景には、忌み嫌うべきシビアな要素が含まれており、それはこの舞台が持つメッセージ性の根幹を成すものである。

しかしながら、(誤解を恐れずに表現すれば)よしもと喜劇的な笑いも劇の構成要素の1つとなっている。

三谷さん(さん、とつけると知り合いのようでイヤだ)は、なぜそのような構成要素をいれたのか、オレサマにはその意図がよくわからなかった。

オレサマのような初心者を楽しませるようにするためか。

それは、本意だったのか。

ひょっとしていれたくはなかったのだが、何らかの理由で日和ったのか。

それとも、それらをひっくるめた上で敢えて、の演出か。

はたまた、企画演出のときの葛藤を舞台で表現したかったとか。

最後に。

誰にでも楽しめるよう、間口を広げ続けたためだろう。

どうも、人間的に低俗な観客をそこかしこに見かけた。

年齢層は決して低くない、むしろ高いのに、だ。

舞台進行中、観客席のあちこちで携帯がブブブブ震える音がしたりして。

あれだけ携帯の電源を落とせと注意されているのに、だ。

そして、ジャンクフード屋のソフトドリンクを持ち込んで、劇の真っ最中にちゅーちゅー飲んでるやつがいた。

すっかり手馴れた様子で。しかも幾度となく。

4/14 森ノ宮ピロティホール 座席番号J16に座ってたオマエ。

オマエはその席に座るべき人間ではない。

美術館でフリスク食ってるのを注意されて逆切れした下衆並み。

嫁子供が泣いてるぞ。

バックグラウンドレベルの高い友人お勧め。

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